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私は本が読めない

なぜか家で読む気にならないのです。

私と本というものは不思議なものでして、子供の時はあんなに嫌いだったのに、最近は読むようになってきたのである。
今となっては広汎性発達障害の診断もおりている。そのため、子供のころはじっとして読むのが、とにかく嫌だったのだと思う。 とにかく勉強(強いて勉める学び)が苦手だった。 いや、好きな人なんていないと思われがちかもしれませんが、絶望的に好きな教科と嫌いな教科の差が激しかった。 私が歴代で一番好きな教科は「通信技術」でした。この教科での定期考査ではクラス1位を取ったくらいには好きでした。 逆に嫌いな教科は「セキュリティ」でした。赤点を取って再試験になるほどに苦手でした。私にとって単語を覚えるのはかなりの苦行だった。例にもれず「英語」や「国語」も大嫌いでした。

閑話休題。
もちろん文章を読むなんてもってのほか嫌いだった。いや、正確には文章を"読まされる"のが大嫌いなのである。これに気づいたのが大学生になってからだった。哲学に興味を抱き、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」をはじめ、「方法序説」、「純粋理性批判」、「形而上学」を読み始めたのである。さらに、純文学にも興味が沸いて、「草枕」、「人間失格」、「阿呆の一生」、「春と修羅」などを読むようになったのである。
本を読むこと自体はなんも障壁はなかったのだ。 それ以前から本の中でも技術書や参考書等を読むのは大好きだった。

そう!自主的に読むぶんには、一向にかまわないのだ。 考えてみたら今までの事すべてそうであった。 あくまで"自主的"という部分が重要で文章が嫌いということは無かったのである。"自主的"であれば何でもできたのである。もっとも、電子工作やプログラミングは"自主的"であったので得意だったというだけだったのである。好きこそものの上手なれとはよく言ったものだ。

大学時代には、よくゼミ室に朝から晩まで入りびたり、電子工作したり、プログラミングをしたりしたものだ。無論、参考書を持ち込んで熟読したり、本に書いてあることを実際に動かしてみたりしていました。
社会人となりまして、コロナウイルスが蔓延しているこのご時世、テレワークに切り替わっていたのだ。さて、困ったことがありまして、本を読む場所がない。家で読んでると何となく仕事をしている気になってなかなか読めないのだ。そこで、わざわざ外に出て本を読むようになったのである。本とパソコンを持って行って、喫茶店なんかに入りまして、本を読むようになった。こういった駄文を書いている今も、マクドナルドに行って書いている。社会人は大変だなぁと思う今日この頃でした。


作成日:2023/5/30
最終編集日:2023/6/4