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エロゲにおける哲学について

エロゲはエロだけではないのだ。

この話には多少のネタバレが含まれるのでご注意を。
私がエロゲをやり始めたのは高校2年生の時からである。ある一本のエロゲを友人より譲り受けた。それがLampofSugarの「花色ヘプタグラム」である。当時の私は感銘を受けた。あのケモ耳!あのしっぽ!あのあざとさ!
イラスト!音楽!シナリオ!すべてが完璧に思えた。まさしくエロゲの王道だったのです。

そのあと、私はいろいろやりまくった。過去の作品から最新の作品まで。抜きゲーと呼ばれるものから物語重視のものまで。現在も積みゲーがあるぐらいだ。
その中でも私が一番好きなエロゲーは「ケロQ」が出してる「素晴らしき日々」だ。 当時ヴィトゲンシュタインが好きな私には物凄く世界観が刺さった。それも哲学的な部分だけではない。エロゲができうるものをすべて表現していた。
いじめる表現や自殺する表現、人間のいやーなところを極細かく、確実に、正確に描いていた。そして、官能的な表現をすることでそれらを表していた。「素晴らしき日々」はという作品はエロゲであるから面白いのだ。これが官能シーンを飛ばすと話が薄っぺらくなってしまう。官能的表現は物語をより濃く描くためのスパイスである。決して主食になってはいけない。
官能小説と楽しみ方は一緒だ。
比較としてアニメを出すが、アニメでいう「イチャラブ」はキスまでしか行かない。(当たり前の話だが) 対して、エロゲは官能的表現を用いることによって、ヒロインと主役の間に濃密な関係性を描くことができる。それによってヒロインの死やヒロインとの交友関係によって泣けるのである。

私のような表現力の無い人が頑張って言葉にしたことであまり伝わらないかもしれない。しかし、是非これを機にやってくれるとありがたい。エロゲ業界はいま滅びそうなのだ。さまざまな大手企業が倒産し、王道もののみが残るような気がしている。それだけは絶対にいやなのだ。
エロゲはエロゲゆえにいろいろな表現が可能だ。こんな、素敵な存在をなくさないためにも私は今日も今日とてエロゲをする。


作成日:2023/6/5
最終編集日:2023/7/1