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世界観の延長にあたるが、なぜこの一人称視点しか見れないのだろうと、子供の頃よく考えたものである。
わたし的にはこの答えが出たので一旦共有したく思う。
最初に言っておくと極端な唯物論だ。
ただ、私なりに世界を正しく見るとこんな風に見える。
私たちは自我を自覚しているように思える。
しかし、自我ってなんだろう。
よく自我意識を語る時に、AIのような機械で人間の脳の構造を完全に模倣すれば、そこには自我が介在するのだろうか?という問いがある。
模倣した際に自我っぽいものが観測された場合、それは哲学的ゾンビではないか?という問題だ。
私は「本物の脳」も「模倣された脳」も変わらないと感じる。
人間だって所詮は電気信号でうごいている。
そこに心や自我というのがあるとすれば、機械にも当然あるべきである。
もし、それを哲学的ゾンビだというなら、人間すら哲学的ゾンビに過ぎないと思う。
脳以外の部位に自我が宿るのであればそこもすべて模倣すればいい。
わたしたちが観測できる範囲ではすべて科学的に分析できるはずである。
この場合「本当に意識を持っている存在」なんて存在しなく、現在の一点において1人称の視点があるだけの世界があるだけである。
もし、わたしたちが観測できる範囲外にあるのではないかと思われた方がいたら私は言いたい。
「自我」という言葉は人間が付けた便宜上の概念だ。
それが実のところ観測可能範囲外であろうと観測可能範囲内であろうと概念は変わらない。
この「自我」という言葉を使う限り私たちの思考のあり方は変わらないのである。
まさに、ウィトゲンシュタインが言った「言葉の限界が世界の限界」であるように……
そうなのであれば、哲学的ゾンビの状態を自我を持っているとしても問題はないのではないだろうか?
観測できる範囲の中で言葉は生成される。
であれば、我々が観測できる範囲内で語るほうが、我々にとっては好都合ではなかろうか。
観測可能範囲外を想像することはできても、世界のシステムを語るうえでは無意味なのである。
余談ではあるが、世界のシステムを語るうえでは無意味ではあるものの、私自身、観測可能範囲外に思いをはせる行為は非常に興味深く思える。
神道や仏教などがどのように言い伝えられ、人類が観測可能範囲外のことを考え続けたことを観察するのは楽しい。
結果、仏教との共通点とかを見いだせて面白かったりする。
また、独我論でおなじみのデカルトは言った「我思う、故に我あり」と
我思う、この、「我思う」の思考プロセスすら科学的なものの結果にすぎないのではなかろうか。
そして、世界を完璧に同じ状況にして全く同じシナプスに電気を流せば同じ判断をするのでは?とも思う。
「自我」と同様に「意志」すらも存在せず、単に物理法則の結果でしかないと思っている。
(一人称視点の)わたしは単なる観測者で、意思決定の主体ではない。
そして意志がないのだから、当然(一人称視点の)わたしには「選択」や「責任」なんてものもない。
だから、(一人称視点の)わたしにとっては「生きること」にすら意味を見出していない。
ただ、私の頭は学術的な人類の発展に寄与したいと考えているらしい。
そして、もちろんこの考えに至ってるのも物理法則の結果でしかない。